お城の櫓は何に使われていたの?由来や種類など櫓の基本を詳しく解説

お城を防衛するうえで欠かせない「櫓(やぐら)」。その歴史は古く、縄文時代や弥生時代にはすでに存在していたともいわれていますが、具体的にどのような設備で、どのような役割を担っているのか、詳しくご存じでしょうか?

本記事では、そんな「櫓」の意味や歴史、「天守」との違いなどを解説していきます。近世城郭に見られる「櫓」の種類や名前の由来についても紹介しているので、ぜひ最後までご覧ください!

櫓(やぐら)とは?

櫓(やぐら)とは、見張りや防御のために造られた建造物のことです。かつては「矢倉」「矢蔵」とも表記されていました。名前の由来は諸説ありますが、一般的には「武器(矢)を収納しておくための倉」または「射撃するための高い場所(=矢の座)」を語源とする説が有力視されています。

その起源は古代にまで遡り、その証拠として青森県の三内丸山遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡に痕跡が残されています。また、平安時代に造られた多賀城からは櫓跡が発見されており、さらに平安時代後期の『後三年合戦絵詞』や鎌倉時代末期の『一遍上人絵伝』からも、見張りや防御を目的とした物見櫓が存在したことが分かっています。

中世になると、城の塀の中に「高櫓」「井楼(せいろう)」と呼ばれる、攻撃や見張りのための質素な櫓が造られるようになりました。この頃には山城の尾根にも、櫓が造られた痕跡が残っています。

近世の櫓は、城郭内の石垣や土塁の上に造られたものが知られています。周囲を広く見渡せる場所に造られており、物見に加えて戦時は敵に向けて矢や鉄砲を放つ拠点としても機能しました。また、戦乱のない時期には、武器や食糧を備蓄する倉庫としても活用されていたといわれています。

このように、古くは見張りを主目的として非常に簡素に造られていましたが、安土桃山時代になり鉄砲などの武器が登場すると、耐久性や防火性のある櫓が造られるようになりました。櫓が全国の城で造られるようになったのは関ヶ原の戦い以降で、外様大名が多い西日本を中心に造られたとされています。その後、幕府に遠慮する雰囲気や1615年に発布された「武家諸法度」の影響で城そのものの建設が下火になり、やがて、櫓も見張りや防御のためのものではなく、食糧を備蓄する倉庫として使われるようになりました。

明治時代になると「廃城令」が出され、多くの城が壊されたのと同時に櫓もなくなりました。二次世界大戦で焼失したものもあり、現在残っている櫓の多くは復元されたものとなっています。

天守と櫓の違い

櫓と混同しやすい建造物の1つに「天守」がありますが、実は双方の基本的な構造はほとんど変わりません。大きな違いを挙げるとすれば、それは「窓の有無」です。天守は四方を見渡せるように窓が付けられていますが、櫓には窓がありません。これは、本丸や二の丸で生活する城主の姿を家臣が櫓から見下ろすのを防ぐためだといわれています。

櫓の種類

櫓の種類は主に4つあります。

・平櫓
・二重櫓
・三重櫓
・多門櫓

それぞれの特徴を確認していきましょう。

平櫓

平櫓は「一重櫓」とも呼ばれ、最も小さく簡素な櫓です。その他の櫓に比べて高さがないため、見張りではなく城壁としての機能を果たしていました。

この平櫓には、櫓や櫓門をつなぐ「続櫓」と、天守の付属物のようになっている「付櫓」の2種類があり、前者は江戸城(東京都)の伏見櫓、後者は松江城(島根県)などに残っています。

二重櫓

二重櫓は、関ヶ原の戦い以降に造られたもので、標準的な櫓です。堀や石垣などで仕切られた区画「曲輪」の隅や2つの壁が出合う「出角」など、城門越しに城外が見渡せる場所に建てられました。江戸城や名古屋城(愛知県)・大坂城(大阪府)といった幕府直轄の城には今も二重櫓が残されています。

二重櫓はいろいろな形がありますが、一重目と二重目の大きさが同じ「重箱櫓」はその代表です。また、大坂城の乾櫓のように、上空から見るとL字型になっている櫓もあり、櫓が防衛上大きな役割を担っていたことが分かります。

三重櫓

三重櫓は二重櫓よりも格式が高い特別な櫓です。天守のない城では、三重櫓を天守の代わりにすることもありました。天守の代わりに用いられた三重櫓は「御三階櫓」とも呼ばれ、弘前城(青森県)の辰巳櫓や丸亀城(香川県)の天守などがこれに該当します。

この三重櫓は見張りに使われた「望楼型」と「層塔型」があり、かつては望楼型の方が多く造られました。ちなみに、望楼型とは一重目と二重目が大きな入母屋造りになっていて、その上に見張り用の三重目がのっている形です。これに対し、層塔型は上の層にいくほど床面積が狭くなる櫓で、名古屋城の西北隅櫓はその一例です。

多門櫓

多門櫓は、1つ目に紹介した「平櫓」が長屋のように連なった形状の櫓です。本丸や二の丸を取り囲む曲輪の部分に造られ、城壁の役割を兼ねていました。その起源は、戦国時代に松永久秀が現在の奈良県奈良市に建てた多聞城と考えられており、そこから「多聞櫓」という表記になったといわれています。

ちなみに、大坂城には、かつては総延長1.7kmにわたる枡形の多門櫓がありました。落雷により大半が焼失してしまいましたが、その後再建され、現在は56mの多門櫓を見ることができます。

櫓の名前の由来

櫓はお城の中に複数あるため、場所を特定できるようそれぞれに名前が付けられています。名前の付け方にはいくつかのパターンがあるので、最後にその種類を確認していきましょう!

番号・イロハ

まず「一番櫓」「二番櫓」や「イの櫓」「ロの櫓」などは、城の中にあった櫓に順番を振ったものです。大坂城には「一番櫓」と「六番櫓」が今日も残っています。

方位

方位名のついた櫓や、「丑寅(艮)櫓」や「辰巳櫓(巽櫓)」のように干支の名前のついた櫓は、本丸から見た方角を表しています。例えば名古屋城の「西南隅櫓」は名古屋城の本丸から見て西南にある櫓です。また江戸城の桜田巽櫓は、江戸城の本丸から見て東南(巽)、大坂城の乾櫓は大坂城の本丸から見て北西(乾)にあります。

用途

櫓には、「太鼓櫓」「月見櫓」「富士見櫓」など、用途から名付けられたものもあります。

「太鼓櫓」は敵が迫ってきたときに合図をする太鼓を備えた櫓で、松山城(愛媛県)や松江城、広島城(広島県)などに復元されています。また、「月見櫓」や「富士見櫓」は月や富士山を眺めるためのもので、開口部が広く造られているのが特徴です。「富士見櫓」は関東地方の城によく見られ、このうち、江戸城富士見櫓からは秩父連山や筑波山までも見渡せたといわれています。

また、櫓には食糧や武器を備蓄する倉庫の機能もありましたが、備蓄品の内容から「塩櫓」「干飯(ほしいい)櫓」「旗櫓」「鉄砲櫓」「具足櫓」などと名付けられたものもあります。姫路城(兵庫県)の「塩櫓」は籠城戦にそなえて塩を備蓄しておく倉庫の機能を持っていました。

地名

地名に由来する櫓もあります。

例えば、広島県の福山城にある伏見櫓は、福山城を築く際に、徳川秀忠が記念に京都の伏見城から移築させたものです。桃山時代の風情が感じられる櫓で、熊本城(熊本県)の宇土櫓とならび、最古の櫓だと考えられています。また岡山県の津山城にある「備中櫓」は「備中国」に由来しています。

その他

この他にも少し変わった名前の櫓があります。

例えば、大坂城の「千貫櫓」は織田信長が石山本願寺を攻めた際に苦戦した場所で「千貫を払ってもよいのでとりたい」と考えたことが由来となっているといわれています。また、姫路城の「化粧櫓」は徳川秀忠の娘・千姫の化粧料で建てられたという説があります。

少し怖い名前の櫓が、大分県の府内城にある「人質城」です。これは、戦国時代に人質としてとられた男子を住まわせる場所だったことに由来しています。

お城を見学するときは櫓にも注目してみよう!

櫓は古くから武器などを保管するところでしたが、武器や戦い方の変化に伴い、その姿も変化していきました。櫓の種類や名前の由来を知ることで、そのお城のことをより深く理解できるようになるので、お城見学に訪れる際は、ぜひ櫓にも注目してみてください!