ロマンの結晶・木造復元天守5城の魅力。復元に向けた江戸城の動向にも注目!

大洲城

日本の城郭にはさまざまな建造物が置かれますが、なかでも荘厳に構える天守は「お城の顔」として象徴的な役割を担います。とりわけ脚光を浴びやすいのは、姫路城をはじめとする国宝指定の天守や、大阪城など「地域のシンボル」として定着している天守でしょう。

これに対して、伝統的な工法によって再建された「木造復元天守」は、大々的に取り上げられる場面が少ないかもしれません。けれども、その再建の取り組みには人々の熱意が凝縮されています。綿密な資料収集や、高い建築技法によって忠実に再現された木造復元天守は、まさに「ロマンの結晶」にほかなりません。

戦後復興期から現在に至るまで、「天守の復元」はしばしば地域住民や自治体にとって共通のテーマとなり、現在でも天守再建に向けた運動は各地で行われています。この記事では、木造復元天守5城について解説し、江戸城など現在進行している天守復元への取り組みについても紹介していきます。

木造復元天守とは

小峰城と桜

まず「復元天守」とは、歴史のなかで失われてしまった天守のうち、当時の図面や資料をもとにして再建したものを指します。かつて存在した城郭の多くが、江戸幕府による一国一城令や、明治政府による廃城令、災害や戦禍によって消失していましたが、戦後の復興期にはこれらの城郭を復元する動きが見られるようになりました。

復元天守は再建方法によって大きく2つに区分され、鉄筋コンクリートなど現代的な工法によって外観を再現したものを「外観復元天守」と呼びます。一方、当時の工法や材料を用いながら、内部構造まで再現したものを「木造復元天守」と呼び、再建された天守のうち往時の姿にもっとも近い区分とされています。

全国にある「外観復元天守」はすべて平成以前に復元されたものであり、さらにそのほとんどが1950年代後半から1960年代に再建されました。この時期は「第1次お城ブーム」とも呼ばれ、当時は復元された天守が「戦後復興のシンボル」としての役割を担っていたことが推察されます。

一方、木造復元天守は現在(2022年2月時点)全国に5城あり、これらはすべて平成以降に再建されたものです。建築技術の向上などの要因に加え、消防法や建築基準法といった法制面をクリアできる例が登場したことで、木造による復元が積極的に試みられるようになったのです。

復元天守と復興天守の違い

再建方法による天守の区分において、復元天守と混同しやすいのが「復興天守」でしょう。いずれも「かつて存在した天守を、もとあった場所に再建したもの」という点では共通していますが、異なるのは「再現性」というポイントです。

上述のように、復元天守は基本的に「史実にもとづく形」で再建されています。一方、復興天守は再建にあたって資料の不足により推定箇所が残されていたり、仕様や構造上の変更が加えられていたりするものを指します。

ただし、復元天守と復興天守の線引きは必ずしも明確ではありません。たとえば神奈川県の小田原城は、観光利用に向けて天守最上階に高欄を設置するなどの変更点があるため、現在多くの資料では復興天守に区分されています。一方で、こうした変更点を許容範囲とし、外観復元天守に数え入れる資料も存在しており、選定の基準は絶対的なものではないといえるでしょう。

さらに現在、小田原市は小田原城一帯の復元計画を進めており、この一環として天守のあり方をあらためて検討する方針を示しています。観光用途よりも再現性を重視すべきとの声もあり、今後の展開によっては明確に復元天守として扱われる可能性もあるでしょう。

(参照:小田原市「史跡小田原城跡保存活用計画(概要版)(案)」「史跡小田原城跡保存活用計画の素案」内))

木造復元天守5城

新発田城

前述のように、木造による天守の復元が見られるようになったのは「平成」以降のことです。白河小峰城において木造の高層建造物に対する建築許可が下りたことが先例となり、各地で天守やその他の建造物の木造復元が続くようになりました。

木造による復元には、資料収集や技術力の確保、さらに法制面の問題など、現実的な課題が数多く存在します。復元計画の遂行にあたっては、地元市民や地元企業による寄付金など、地域の希望や熱意に後押しされながら実現に至ったケースも多いです。

白河小峰城

白河小峰城

東北3名城の1つに数えられる福島県の白河小峰城は、14世紀、南北朝時代の武将・結城親朝により開かれたとされる城郭です。江戸時代に陸奥白川藩主の丹羽長重により改修され、1632年、三層三階からなる天守相当の建物を含む城郭が完成しました。

なお、現在再現されている三重櫓は実質的に天守の役割を担っていたものの、当時は一国一城令により天守を建てることができなかったため、名目上は天守として扱わない資料もあります。

白河小峰城は幕末の戊辰戦争の舞台となったことでも知られ(白河口の戦い)、新政府軍の攻城により三重櫓を含む多くの建造物が焼失しました。三重櫓内部の柱や床板には、戊辰戦争の際についた弾丸跡が残されています。1991年に再建され、天守に相当する建造物としては日本で最初の木造復元の事例となりました。

城郭の至るところに石垣を張り巡らせた「総石垣造り」を特徴としていますが、東日本大震災によって多くの箇所が崩落し、大きな被害に見舞われました。しかし、崩れた石をもとの位置に積み直す綿密な復旧工事が行われ、2019年に石垣の復旧が完了しています。

(リンク:白河観光物産協会ホームページ「白河小峰城」

掛川城

掛川城

静岡県の掛川城は、かつての遠江国佐野郡にあった城郭です。室町時代の中期、駿河国の守護大名であった今川氏の命により朝比奈氏が築城したと伝えられています。

1590年頃からは豊臣秀吉の重臣であった山内一豊の居城として用いられ、このとき天守などが近世城郭の形に整備されました。掛川城にまつわる歴史上の逸話としては、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に与した山内一豊が、家康に掛川城の提供を申し出た話が有名です。

1854年の安政の大地震において天守を含む多くの建造物が倒壊し、その後は平成に入るまで天守が再建されることはありませんでした。

1994年の天守再建に際しては、江戸時代の図面や資料をもとに、高知城を参考にした木造復元が行われました。これは山内一豊が新領地の土佐に移る際、高知城を築城するにあたり、それまで居城としていた掛川城を原案としたという記録をふまえたものです。

外観上の特徴としては、白漆喰の城壁や、張り出しの強い黒塗りの屋根が挙げられます。また天守以外の建造物にも高い歴史的価値が認められており、とくに「二の丸御殿」は全国に4つしかない現存御殿の1つとして国の重要文化財に指定されています。

(リンク:静岡県掛川市「掛川城」

白石城

白石城

宮城県の白石城は、かつての陸奥国刈田郡にあった城郭です。鎌倉時代の築城とされていますが、明確な資料は不足しています。

江戸時代には伊達家の重臣であった片倉氏の居城となり、仙台藩の中心として機能しましたが、明治時代の廃城令により取り壊し処分となりました。

復元計画が持ち上がったのは昭和の末期からであり、発掘調査などを通じて資料を集め、平成に入り工事が開始されました。伝統的な工法を用いて1823年の再建時の形に天守を復元し、1995年に工事が完了しています。

3階建ての天守は高さ・広さともに木造復元天守として最大級であり、漆喰で仕上げた白い城壁の美しさに、檜やヒバなどの国産木材を採用した柱や梁といった内部構造も見どころです。

(リンク:白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷

新発田城

新発田城

堀に面した天守を特徴とする新潟県の新発田城は、かつての越後国蒲原郡に建てられた城郭です。戦国時代の末に初代新発田藩主の溝口秀勝が築城し、17世紀半ばに完成したとされています。

明治時代に廃城となり、その後は陸軍の営所として用いられました。平成に入り、明治期の古写真などをもとに、伝統工法による天守の復元が試みられ、2004年に完成を迎えます。

城壁の目地に漆喰をかまぼこ城に塗り込んだ「なまこ壁」や、屋根に冠される3匹の鯱が外観上の特徴です。城郭内には往時のまま現存している建造物も見られ、本丸表門および旧二の丸隅櫓は国の重要文化財に指定されています。

(リンク:しばた観光ガイド「新発田城」

大洲城

大洲城

4重4階の大型天守を特徴とする愛媛県の大洲城は、かつての伊予国喜多郡に建てられた城郭であり、天守の高さは19.15mにも上り、現在ある木造天守のなかでもっとも高い建造物です。

鎌倉時代末期の築城とされていますが、天守が築かれたのは近世に入ってからと伝えられています。1595年に築城の名手として知られる藤堂高虎が入城し、近世城郭としての形式を整えました。

明治時代に入っても本丸の建造物は保存されましたが、天守は老朽化などの問題から1888年に解体されています。なお現在でも、天守と連結する高欄櫓や台所櫓、さらに苧綿櫓と三の丸南隅櫓は、往時のまま現存する建造物として国の重要文化財に指定されています。

1994年から天守の再建計画が始動し、2004年に完成に至りました。明治時代の古写真や江戸時代の木組み模型など、豊富な資料が残されており、伝統工法によって忠実に当時の姿を復元しています。

(リンク:大洲城公式サイト

天守閣復元の取り組み

名古屋城

城郭の天守は、地域住民のアイデンティティを形成したり、観光スポットとしての役割を担ったりと、その地の象徴となる建造物です。こうしたシンボルを後世に残すべく、消失した天守や老朽化が進む天守を復元しようという取り組みが各地で見られます。

しかし、木造で高層の天守を復元する際には、建築基準法や消防法といった法令面がネックになります。さらに史跡における建造物の再建には文化庁の許可が必要です。これまでの例を見ても、長期にわたって省庁との折衝が行われたケースは少なくありません。

さまざまな困難に直面しながら、復元計画の実現に向けて取り組む地方自治体や市民の運動には、その地の文化や歴史に対する熱い思いが込められています。以下では現在、天守の復元に向けて活発な取り組みがなされている例を紹介していきます。

江戸城

徳川家の居城として江戸幕府の中軸的な役割を担った江戸城は、かつて日本史上最大の木造天守をもつ城郭でした。しかし1657年の「明暦の大火」により天守が焼失し、その後天守台は築かれたものの、江戸市街の復興が優先されたことで再建は見送られました。

江戸城の歴史的、文化的意義の大きさから、天守再建に向けた運動は長く続いており、有志団体による調査や計画立案が行われてきました。一方で、皇居という立地や500億円ともいわれる再建費、歴史考証における問題など、意見が分かれる点もあり、実現に向けた課題は多く残されています。

(参照:産経ニュース「【ニッポンの議論】天守再建の是非」

こうしたなか、宮内庁は2020年に江戸城天守の「復元模型」を公開しました。資料の多い寛永期の天守を30分の1スケールで再現したもので、製作期間は2年にも及びます。現在、皇居東御苑内の本丸休憩所増築棟にて一般公開されており、無料で観覧することができます。

(リンク:宮内庁ホームページ「江戸城天守復元模型」

名古屋城

城郭として初の国宝指定を受けた名古屋城は、すでに鉄骨鉄筋コンクリート造の外観復元天守を有しています。しかし、現在では建造から60年以上が経過し、老朽化対策などが求められるようになりました。

天守の構造を見直すにあたり、名古屋市は大規模な再建計画を進めています。名古屋城には当時の図面や資料が多く残されていることから、再建当時にはなしえなかった「木造」による再現が可能であるとして、天守の木造復元を決定したのです。

現段階では、建て替えに対する文化庁の許可が下りておらず、当初の計画は先延ばしとなっています。名古屋市は2023年度中に解体および復元に関する全体計画をあらためて文化庁に提出する予定であり、今後の展開が待たれる状況です。

(参照:名古屋城公式ウェブサイト「復元事業の概要 | 天守閣木造復元」

文化財の改築や城跡の土地利用は極めて公共性の高い問題であり、慎重な議論と合意形成のプロセスが要求されます。一方で、歴史的・文化的なシンボルとして城郭が担う意義は大きなものであり、天守を往時の姿のまま復元したいという情熱は否定しがたいものでしょう。天守復元の営みは、「歴史の保存」と「現在の公共生活」とを折衷していく作業ともいえるのかもしれません。